The Cat's Pajamas

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「努力」について真剣に考えてみた

「努力」について考えてみる

努力は裏切らない、という言葉がある。

努力は必ず報われる、という言葉もある。

一方で、このような言葉をかけられると「努力は本当に報われるのか?」という疑念がもやもやと頭をよぎることもある。

生きていると報われない努力がたくさんあることを我々は歳を重ねるごとに学んでいく。

報われると信じたい。

だが期待が裏切られるのも怖い。

以前、AKB48のメンバーとして知られる高橋みなみさんの「努力は絶対に報われる」という言葉に対し、明石家さんまさんが「努力は報われると思う人はダメですね」と答えたことが話題となっていた。

様々な努力論が世間を飛び交う中、ひとまず我々は、どのように「努力」というものを捉えるべきなのか。

今回は「努力」という言葉について、少し考えを巡らせてみたいと思う。

1、「努力」という言葉の辞書的定義

まず努力について考えるために、辞書における言葉の定義を確認したい。

 *大辞林

努力:

心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと

 *明鏡国語辞典

努力:

 ある目的を達成するために、気を抜かず、力を尽くして励むこと

これらをまとめると、ひとまず「努力」の辞書的定義は、

  1. 目的の達成を目指す行動
  2. 全力で励むもの

といえる。

これらの定義は一般的に私たちが”努力”という言葉の意味を思い浮かべた時の中身とほぼ近しい。

では、英語の定義ではどうなっているか。

英語には「努力」という訳語にあたる単語が3つ存在する。

effort、endeavor、exertionだ。

  • effortは、時間の長さは関係なく、精力的に何かを行うことを意味する。語源はef(外に)+ fort(力を出す)だ。
  • endeavorは、より一層の労力を必要とする「努力」を表す。try hard to do or achieve something。つまり簡単にできないことに必死に挑戦するというイメージだ。
  • extertionはuse of physical or mental energy。つまり物理的に身体的(もしく心的な)エネルギーを消耗することを意味する。

これらの英語の「努力」と日本語の「努力」という言葉を比べると、英語の方がより一層、身体的もしくは心的な力を外に出す「活動」に注目していることがわかる。

つまり英語における「努力」は、本来自分もつ力を外に出す「行為」であり、その度合いを細分化している。

一方、日本語の「努力」は英語のそれよりも、行動を行う際の精神状態に焦点が当てられているのがわかる。つまり辞書の定義にもあったように気を抜かず」「心をこめて」といった心象的な表現がみられる。

この理由をさらに「努」という漢字の語源から探ってみよう。

2、「努力」とは、〇〇〇の力である

ここで「努力」という言葉に使われている「努」という漢字の語源を確認してみよう。実は「努」という漢字の語源は、以下のようなものになる。

音符の奴は、力を尽くして働かされる奴隷の意味

力を尽し、つとめるの意味を表す。(新漢語林より引用)

すなわち、我々が使っているこの「努力」という言葉はそのルーツにおいて、「働かされる奴隷が力を尽くしている様」を表したものである。このことから落語家の立川談志は「努力」について以下のように語っている。

努力とは、馬鹿に与えた夢である。

好きでこだわりがあることには、努力なんて言葉以前に、自然とやってしまうはずなんですよ。

努力という字は「奴(やっこ)の力」と書くんです。

この「奴(やっこ)の力」という視点の鋭さは、日本の”努力”という言葉の核心をついたものだ。

親や教師もしくは上司が使う「努力しなさい」という言葉に、やや抑圧的な響きを感じてしまうのはなぜだろうか。

それは単に彼らの口調が偉そうなだけかもしれないが、そもそも「努力」という言葉には上から下への命という意が込められているからと主張することも可能だろう。なぜなら「努力」とは身分や能力が低いものが忠誠を誓い、最大限の力を尽くすという意味がその由来において内示された言葉だからだ。

このように考えると、先ほどまとめた英語の定義との異相が浮かび上がってくる。

例えば、以下のようなイチローの言葉が万人の心に届く理由を少し違う視点から考察することができるだろう。

努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。

努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。

人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。

多くの人は、このイチローの言葉を聞き、感銘を受ける。日本が誇る一流のプロ野球選手でありながら、なんて「謙虚」な言葉なんだ、と。

なぜこのように我々は感じるのだろうか。それは彼が、きちんと結果を残したうえで「努力」という自分の地位を低める言葉を多用しているからだ。

日本人ならばその名を知らない野球選手が主張する奴(やっこ)の力――それは実力と実績を兼ね備えた自分の地位を低め、聞き手に対する謙遜の意を大いに表すものとなる。

一方で、結果を残していないのに「努力」という言葉を多用する人も多い。

その様は、結果を出さず誰からも認められていないのにもかかわらず、自ら自分を低める言葉を好んで多用する卑しさを纏うだろう。

このような人に対し、長嶋 茂雄は以下のように述べている。

「努力してます」と練習を売り物にする選手は、一流とはいえない。

漢字の「努」がもつニュアンスを字義的に踏まえると「努力」はそもそも力の及ばないものが目標達成のために全力を尽くすさまであり、それ自体は讃えられるべきものではない。

だからこそ、自分で自分のことを「努力してます」という言葉を頻繁に使う人は、人に認められていないのに自分の価値を下げる言葉ばかりを使っている人ということになる。

まとめると、イチローのように万人を圧倒するほどの結果をもって、その理由を奴(やっこ)の力と語ることにより、生じた謙遜のニュアンスから、人は感心の意を示す。

このように考えると「努力」は何より、結果ありきの言葉ともまとめられるだろう。

3、報われない「努力」は存在しない論

「努力」は結果ありきの言葉である。このような考え方を補足するものとして、ここでは王貞治監督の言葉を引用したい。

努力は必ず報われる。

もし報われない努力があるのならば、

それはまだ努力と呼べない。

つまりこれは「努力」とはあくまで成功した人間が、後から原因を語った言葉でしかないという考え方に基づいた言葉である。

これに則ると、高橋みなみさんの「努力は必ず裏切らない」という言葉は自分の成功という結果があるから言える言葉であり、単にその成功の理由や過程を「努力」という言葉で表現しただけである。

ヘアブランドの名前としても世界中にその名を知られるイギリスのヘアデザイナー、ヴィダル・サスーン氏もこのように述べている。

成功が努力より先に来るのは辞書の中だけである。

The only place where success comes before work is in a dictionary.

彼らの意見は、結果を出さないと努力は語れない(存在しない)という見方だ。

この考え方において「努力」とは必ず成功とセットになる、より極論としてまとめるならば成功者しか努力を語ることができない

報われていない「努力」ーーそれはそもそも「努力」でも何でもない。

しかし幾らこのように言い聞かせたとしても、我々は、報われない「努力」という言葉をそう簡単に切り捨ててしまえるだろうか。本当に心の底から、この論理に、頷くができるだろうか。

4、「努力」の正しいやり方

どんなに時間をかけて、心を尽くしたとしても、すべての夢が叶うわけではない。

そのことを多くの大人たちが、既に知っている。

成功者が後に語る、報われた「努力」。

その一方で、そもそも努力ですらないとさえ否定される、報われない「努力」。

その差はいったいどこにあるのか。

この思念にふと光を与えるのが「いまでしょ」でお馴染みの東進ハイスクール講師・林修先生の努力論である。

努力は裏切らないって軽々しくいいますけど、補足してあげる必要があるんです。

正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない。

この林先生の言葉は、我々がふとした時に陥ってしまう「努力の罠」に対して警鐘を鳴らしているといえるだろう。

というのも「努力」という漢字の語源にあるように、我々日本人は時に気を抜かず」「心をこめて」といった心象にばかり重きを置き、実際の「行動内容」を重視せず「努力」というものを語ろうとしてしまうことが多くある。

例えば、どうしても東大に入りたい受験生がいる。

彼は、東大の赤本を買い、東大のオープンキャンパスに行き、東大のホームページを読み漁り、東大に関するありとあらゆる情報を頭に詰め、東大の近くにアパートを借り、いつも東大のことで頭がいっぱいで、自分が東大に通う日を毎晩夢見ていたとする。

彼はその心をすべて自分の夢と目標に尽くしている。にもかかわらず、費やした時間、労力は何一つその夢に貢献していない。

彼がいくら「努力」を主張しても、このままでは彼の夢は叶わない。

なぜなら、彼の努力は「受験勉強をする」という正しい方向を見失っているからだ。

これは一見、何とも馬鹿らしい例えではある。だが、実は同じ状況に陥っているという人間が少なくはない。

小説家になりたいのに、文章を書かない、ミュージシャンになりたいのに曲を作らない。好きな人と結ばれたいのに、緊張して話しかけることができない。

自分の心が自分の欲望や夢に向いているほど、その思いと行動の間にあるギャップが大きさに人は気づかず、悩み苦しむ。

なぜこんなに苦しいのに、なぜこんなに望んでいるのに、叶わないのか。

それは単に正しい方向に進んでいないからだ、と疑ってみてもよいかもしれない。

やってみて「ダメだ」とわかったことと、

はじめから「ダメだ」と言われたことは、違います。

イチローの言葉が万人の心を打つのは、彼がまず「行動」ありきの人であり、まっすぐと己の道を突き進んだ成功者だからだろう。

失敗したら怖いという「恐れ」をもつ。全てが明らかになるのを恐れた結果、人は正しい道をあえて避け、目的地にたどり着くことのできない平坦で代り映えのない安心できる道を好んで選ぶ。 

必用なのは、おそらくその思いを圧倒するほどの行動による疲弊だろう。全ての雑念を忘れ、ただそれに打ち込む奴(やっこ)の力。

それは我々が考えているよりも、うんとシンプルなものなのではないか。

5、努力と「運」の関係性

そうはいっても我々が「努力」と呼ばれる行為を行う際、大きく分けて以下二つの言葉が頭をよぎり、奴(やっこ)の努力に時間を費やすことを阻もうとするだろう。

その一つが「運」である。

努力が必ず報われるとは限らない。何故って成功は「運」次第なんだろう、と。

しかしこのような考え方をしては、何も始まらない。

故に、ここでは「運」と「努力」の相互関係について、二つの考え方を提示し、その対策を考案してみたい。

1、「自己完結型」と「他者依存型」の目標

まず、自分の目標(夢)が少なからず「運」に左右されるかどうかという点は、その目標が「自己完結型」と「他者依存型」のどちらに近しいかによって、異なってくるのではないかと述べたい。

というのも我々日本人の人生において、三大関門と呼ばれる三つの出来事は

  1. 大学受験 
  2. 就職
  3. 結婚

であり、この3つは下から順に難しくなるといわれているからだ。

それはなぜかというと、下に行けば行くほど自分の努力だけではなく、他者の存在に結果を左右される度合いが高まるからである。

ある程度のトレーニングや勉強を積み、自分の能力値を高めるという「自己完結型」目標は、他者性の介在が少ない。よって「テストで良い点数を取る」といったように、達成できる可能性が、自分の努力量に比例しやすい。

しかし「あの会社に就職する」といった目標は、そうはいかない。企業研究や自己アピールといった努力量の必要性は否めないが、やはり最終的な決定権は企業の側にある。

「あの子と結婚したい」といった目標も、相手の意思が不可欠であり、自分の意志の強さだけではどうにもならない縁、が必要となる。

つまり今、自分の抱いている夢や目標が「他者依存型」のものであればあるほど、「縁」や「運」によって左右されやすくなり、その実現は困難なものになる。

では、自分のもつ夢や目標が「他者依存型」のものであった場合、どうすればよいのか。

答えは簡単だ。まず「自己完結型」の小さな目標を立て、それをクリアしていき、最終的に「他者依存型」の目標にたどり着くという具体的な道筋を立てればよい。

例えば「あの子と結婚したい」という夢がある。

これをいきなり叶えることはできない。

だが「あの子に毎日、挨拶する」「一日一回、優しい言葉をかける」「誕生日を祝う」といった自分が行動しさえすれば達成できる目標をいくつも作り、それを達成し、積み上げていくことはできる。

先ほど挙げたイチローの言葉がさす「努力」というものも、これに等しいプロセスを指しているといえる。

つまり、いきなり「メジャーリーグで活躍する」ことはできない。

だが「毎日素振りをする」「休日は友達と遊ぶよりも練習する」といった「自己完結型」の目標を一つずつ子供時代からクリアしていたことが、彼の指す「努力」ではないだろうか。

このこの「自己完結型」の目標を沢山立て、それを達成することは、非常に重要なプロセスだ。なぜなら、この過程によって我々が得られるかけがえのないものがあるからだ。それは「自信」である。

巷でよく見かける悩みの中に「自分に自信がもてない」というものがある。

「どうやったら自信を持てるのか」という悩みがある。

しかし「自信」とは、自分が決めたことをちゃんとできる、達成できるという自分への「信頼」のことを指すと言い換えれば、これらの悩みはすぐに解決する。できるだけ「自己完結型」の小さな目標を沢山立て、それを確実に達成していくだけでよい。

ここで先ほど述べた林先生の努力論を補足すると「努力」の正しい方向とは、

  • まず「大きな夢」を立てる
  • 「自己完結型」の小さな目標を立て、達成する
  • それを繰り返し、徐々に難易度を上げていく
  • 「自己完結型」の目標を達成していくことでスキルを上げ、さらに自信をつけていく
  • 腕試しとなる最終地点として「(他者依存性の強い)大きな目標」にチャレンジする

といった一連のプロセスを意味していることになる。

この「自己完結型」の目標が、最後に据えた「大きな目標」と関連性が低ければ低いほど、実現性は薄れていくだろう。

また仮に「他者依存型」の大きな目標を達成できなかったとしても、それまでに積み上げた「自己完結型」の目標をクリアしているという意味で、「努力」は決して我々を裏切っていない。積み上げた「自信」は別の「大きな目標」へチャレンジする際に、必ず我々を支え、励ます原動力となるはずだ。

つまり「自己完結型」の目標を据えるという点において、あるのは単に「やるかやらないか」の二択である。

この意味で「努力」は必ず報われるのだ。

 2、「運がよい人間」と「運が悪い人間」の違い

もう一つ「努力」と「運」という話において、頭に入れておきたい考え方がある。これはパナソニックを一代で築いた松下幸之助さんの考えに依拠したものである。彼の良く知られた名言のなかに、このようなものがある。

成功は自分の努力ではなく、運のおかげである

この言葉の本意は「松下幸之助は、たまたま運が良かっただけなんだ」と我々を失意の底に落とすことではない。

というのも、松下幸之助さんに関する有名な逸話の1つに、このような話があるからだ。

彼は会社の採用面接の最後に「あなたは運がいいですか?」と、質問していたという。そこで「運が悪いです」と答える人間は、どんなに学歴がよくても落としてしまった、と。

この問答の面白い点は、「運が良い」と答えた人間ほど、自分の失敗を「運」のせいにはできなくなり、自分の成功は「運」のおかげであると答えるしかなくなるという言葉のロジックだろう。

「運が良い」と答えた人間は、自分の失敗を「運」のせいにはできない。何故なら自分は「運が良い」はずだからだ。だからこそ言い訳ができない。失敗はすべて自分の責任であるはずだし、次に待つ成功への必要なプロセスと考えるしかない。

しかし「運が悪い」と答えた人間は、違う。

全ての失敗を「運」のせいだと片付けることができる。反対に成功したときは、どうだろうか。すべて、自分の実力のおかげだと考える。なぜなら自分は「運が悪い」人間なのに、成功できたと考えるからだ。

この質問で知りたいのは、その人の運の良し悪しではない。

その人物の、物事に対する考え方、だ。

この逸話からわかるのは、運の良し悪しは、出来事に左右されることではないということだ。それは、自分で決められる考え方の枠組みにすぎない。

ならば自分は、どちらの人間になりたいと望むだろうか?

できることならば「運」の偉大さを知ったうえで、自分には必ずそれが味方についていると信頼する「強さ」をもつことを大切にしたい。

 6、「努力」と「才能」論

最後に「運」に加えてもう一つ、我々が「努力」する際に、躊躇する原因となりやすい「才能」という言葉について考えてみたい。

繰り返すが、努力の「努」という感じは、奴(やっこ)の力。つまり、力を尽くして働いている奴隷の意。

一方で「才能」は天の選んだ才ある人物。俗にいう「天才」に与えられた特別な能力の意

この語義に日本人は敏感に反応し「才能型」「天才型」という対概念で考えることを時として好む。

例えば、スポーツ(もしくは戦闘)を題材にした少年漫画の中に出てくるキャラクターは往々として「天才肌」と「努力肌」の二種類に大別される。

ここで突然だが、松本大洋の『ピンポン』という漫画をご存知だろうか。この作品は「努力」と「才能」について大変考えさせられる卓球漫画である。

ピンポン(1) (ビッグコミックス)

ピンポン(1) (ビッグコミックス)

 

ちなみにこの記事を書いたのも『ピンポン』を見た後、「天才」と「努力」について一人で考えを巡らせていたことに由来する。

色々な感想をネットで読み漁ったが、その中でもこの作品が提示する「努力論」に関して、非常に的を得た論を展開されているブログ(松本大洋「ピンポン」が描く天才と努力 - あざなえるなわのごとし)を発見したので、ここで少し引用させていただきたい。

天才とは才能だが、それは「ある」か「ない」かで語れるものではない。先に書いたが、正しくは費用対効果。時間や体力、修練と言うリソースをつぎ込み、その努力を現実的結果としてどれだけ発揮できるかという効率性の差。

努力 X 天賦の才=結果

つまり、努力と才能は、対立する二つの概念ではない

いわば「才能」が種なら「努力」は水である。どれだけ水を与えればよいのかわからない。どんな花がいつ咲くのかもわからない。ただし確実に言えるのは、水を与えるのを止めれば、成長はそこで止まり、花は決して咲かない。

つまり自分の潜在的な能力(才能)だけでは、人は決してそれを開花することはできない

本田圭佑さんの言葉に

世界一になるには、世界一の努力が必要だ

というものがある。「努力」を必要としないのが「天才」ではなく、「努力」を味方につけた者こそ真の「天才」ともいいかえれるかもしれない。

我々は「天才」を必要としている

ちなみに『夢を売るゾウ』という啓発本でヒットした水野敬也氏のブログ「ウケる日記」(水野敬也オフィシャルブログ「ウケる日記」Powered by Ameba)の中に「天才の倒し方」という非常に興味深い記事があった。

その中で水野氏は

世の中のほとんどの人が「天才の倒し方」を必要としていない

と述べていた。

それはなぜかというと「この人は凄い、こんな奴にはなれない」という人間を我々は無意識のうちに欲しているからである。

我々の多くは、努力(=継続的に何かを続ける行動)が苦手だ。そして俗にいう「天才」の存在は我々に「努力」をしなくて済む理由を与えてくれる。

こんな「天才」にはなれっこない。

何故なら、自分には「才能」がないからと。

すなわち、あいつ(天才)と俺(凡人)は違うからという諦めの理由として、無意識的に比較対象を欲しているという指摘である。

俗にいう少年漫画の中の「天才」には、一度聞いただけですべて曲を覚えてしまえる、一度読んだ本をすべて暗記してしまえるという超人的な能力を持ったキャラクターが確かに存在する。

しかし現実世界で、夢をかなえた成功者のほとんどはこのような能力をもっていないだろう

ここで少し、筆者の体験談を語ってもよいだろうか。

私は以前、ある人物のことを「天才」だと崇めていた。彼は私のゼミの担当教授だった。T大出身でマルチリンガル、20代で大学で助教授に就任した俗にいうエリートだった。まだ教授を名乗るには年若過ぎるにもかかわらず、頭の中に辞書を詰めているではないかというほど知識に富み、専門分野を超えたあらゆるジャンルに驚くほど造詣の深い人物であった。

私は彼を「天才」であると疑わなかった。

そしてそう思うたびに自分の小ささと愚かさに打ちひしがれた。世の中には目に見えない圧倒的な序列と壁があるのだ、と自分を納得させ、そのたびに研究に対する熱意は薄れていった。

そんな或る日、私が「天才」だと崇めていた教授は「ピアノ」を始めた。

突然「ピアノ」を始めた教授は、物凄い勢いで、それにのめりこんだ。ピアノ教室に通い始めたと嬉々として語る彼は、とても楽しそうで、研究室にはいつもピアノの曲が流れ、彼の話題はピアノ一色になった。それが数年越しで続いたある日、研究室に流れるピアノの曲に、彼は言葉を添えた。

「実はこれ、自分で弾いたのをスタジオを借りて録音してみたんだ」と。

素人耳にはプロとアマチュアのわからないピアノの調べを聴きながら、私は驚嘆した。

そして急にあっと気づいた。このひとは私が「努力」と呼ぶそれを「努力」と思わずにやっている人なんだ、と。

それがあまりに好きすぎて夢中になり過ぎているだけの人。しかし行う練習量、当てる時間、内容の徹底さが普通の人が想像するそれを圧倒的に凌いでいる人。だから結果として、人より秀でた能力を身につけている人。

その気づきを得た瞬間、私が彼に貼り付けていた「天才」という見えない札は、風に吹かれてどこかに飛んでしまった。

好きなものが多すぎて、知りたくて、極めたくて仕方がない。

私が天才だと崇めていたその人はまるで子供のように「人よりも好きなものに夢中になりやすい人」なだけだった。

無意識の努力論

良く知られた明石家さんまさんの努力論にこのようなものがある。

努力は報われると思う人はダメですね。努力を努力だと思ってる人は大体間違い。人は見返りを求めるとろくなことないからね。見返りなしで出来る人が一番素敵な人やね。

この言葉はなぜ「努力が報われる」という考え方を否定しているのか。

それは「努力」を否定しているのではなく「努力」のもつ受け身で義務的ニュアンスを否定しているのではないだろうか。

何度も繰り返してきたが、「努力」という言葉はそのルーツにおいて、自分の意志であるという前提が欠けており、かつ身分や能力が低いものが忠誠を誓い、最大限の力を尽くすというニュアンスが含まれている。

つまる我々が、継続的に何かを行うという行為に対し「努力」という言葉を使うとき抜け落ちるもの、それは圧倒的な娯楽性である。

「努力」は苦しく、辛い、我慢の連続だ。

そんな風に我々は「努力」という言葉に、勝手に意味を添えていないだろうか。

だが、本当にそうなのだろうか。

もし我々に「才能」があるとすれば、それは何かをとことん好きになれる力ではないだろうか。

自分が「好きなモノ」は続けられる。反対に自分が「嫌いなモノ」は続けにくい。

その気持ちにどれだけ素直になれるか。それだけが「天才」と「凡人」の境目なのではないだろうか。

先ほども言及した「天才の倒し方」で水野敬也氏は

天才は存在しないという言葉はまったくの真実で、というのも、赤ちゃんは基本何もできないからです。

つまり、天才に見える人も生活の中で「自然に訓練」してきたにすぎません。

訓練を無意識にすれば天才、意識してすれば努力家となります。

と述べていた。

すなわち、やっていることは同じだけれどもそれが無意識(楽しい)であれば天才であり、意識的(苦しい)のであれば努力家になる。

この裏付けとなる考え方をさらに参照するために次のブログ記事(「1万時間やれば誰でもプロ!~ピグマリオン効果」マンガで分かる心療内科)から「1万時間やればだれでもプロになれる」という漫画を引用しておこう。

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この問いに関する答えは、以下のようなものになる。

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「努力」という概念に添えられた10000時間という具体的な数字。単純に好きなものを好きであり続け、どこまでも追及し、これだけの時間を費やす事の必要性

だからこそ

自分の好きなことを徹底的に楽しみ、極めればいい。

それこそが自らの持つ「才能」を開花させる近道だとすれば、我々は一分一秒たりとも今持つ限られた時間を無駄にすることなどできないのかもしれない。

まとめ

非常に長い記事となったので、最後にその要点となる内容をまとめておきたい。

  • 「努力」は語源において、奴(やっこ)の力。つまり身分の低いものが力を費やすという否定的なイメージを伴う。
  • 報われない「努力」はそもそも「努力」ではないという考え方がある。
  • 「他者依存型」の目標より「自己完結型」の目標の方が達成しやすい。
  • 「自己完結型」の目標を少しずつ達成することで「自信」を付けるというプロセスが大切である。
  • 「運がよいか悪いか」は自分の考え方次第である。
  • 「努力」は「天才」という言葉と対立させられることが多いが、決してこれらは正反対に位置するものではない。
  • 「努力」が水ならば「才能」は種のようなものである。
  • 好きなものに打ち込むことで、無意識に努力できれば「天才」となる。
  • 10000回練習すれば、「努力」は実を結ぶ。

要点が多すぎて、うまくまとめられた自信はないが、全てを簡潔にまとめれば「好きなことを存分にして、苦労を感じないように一定の練習量に達し、結果を出す」というプロセスを意識することが成功の秘訣だということだろうか。

しかし留意しておくならば「努力」を楽しむといった考え方を見直すうえで、それでもはり「苦」を全く感じない「努力」もまた存在しないということだ。

そりゃ、僕だって勉強や野球の練習は嫌いですよ。

誰だってそうじゃないですか。

つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。

でも、僕は子供のころから、 目標を持って努力するのが好きなんです。

だってその努力が結果として出るのは、うれしいじゃないですか

大事なのは「苦」を感じたとしても、その先に「楽」や「喜」を見出せるか否かではないだろうか。

「苦味」も含めて人生の味を存分に「楽しめ」という幸福論

ちなみにアイドルとしても俳優としても活躍されているV6の岡田准一さんの言葉に、このようなものがある。

蓮の花は“人間の理想像”。水の下はすごく汚いが、きれいな花を咲かせる。

下にいろいろ(苦労が)あるからこそきれいに咲ける。

蓮が花を咲かせる理由は「報われるため」でも「誰かに褒められるため」でもない。

花だから、咲くために生きる。

そして我々人間もまた、それに然りなのかもしれない。

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