The Cat's Pajamas

一人旅好きの趣味ブログ

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を作者の"最高傑作"とよべない理由

SPONSORED LINK

恩田陸と少女時代の蜜月

恩田陸、直木賞・本屋大賞ダブル受賞

このニュースは、なまじながら彼女の一ファンとして非常に嬉しいものだった。

しかし、最後に彼女の本を読んだのはいつだったかと振り返ると、記憶の間に何年もの記憶の余白があることに気づかされて、暫し逡巡する。

怖いな、とぼんやり思う。

あれほど心奪われていたものからも、あっけなく気持ちは離れていくのだ。

「私は今も、恩田陸の本を楽しめるのだろうか」

時の流れによって、変化する嗜好、体験の質は、昔の自分を嘲笑するかもしれない。

そんな躊躇いから、『蜜蜂と遠雷』をすぐに手に取ることはしなかった。

しかし、記憶の断片を拾い集めたとき、確信を持って言えることが一つある。

恩田陸の本。

それは少女時代の私にとって、間違いなく、最高のエンターテイメントだった。

記憶を遡ることでしか訪れることのできない、中学の図書館。

小学校の図書館にはなかった、新しい本の世界がそこにはあった。

私にとって、その象徴が、まさしく恩田陸の本。

当時、私が図書館に熱心に通ったのは、偏に彼女の本が読みたいという衝動に起因した読書欲であったように思う。彼女が多作な作家であったというのも、子どもながらに嬉しい喜びで、余すところなく手に取った。

あの頃の自分にとって「恩田陸」という背表紙に刻まれた名前は、どんなエンターテイメントよりも、胸を高鳴らせるものだった。

しかし同時に、懸念があった。

母の言葉だ。

私の母は借りてくる本を、一緒に読んだ。

読書体験を母親と共有できるというのはまた、子供ながらに私の楽しみの一つであり、私の本好きの原点だった。

或る日、私が借りてきた恩田陸の本を読んで何気なく、母はこう言った。

「この人の本って、ジュブナイル小説って感じだね」

その時、確かに瞠目した。

幼い私には、母の言葉の意味がよくわからなかったのだ。

同時にその言葉は、多感な時期を迎えた私にとって、直に押された「子ども」の烙印であったように感じられた。

妙な悔しさから、私は母親と自分の借りた本を共有するのを暫く避けるようになった。このとき、13歳だった。

ジュブナイルという響きに沿うように

今思えば母の言葉に、それほど深い意味はなかったように思う。

それでもこの言葉を、私が今でも覚えているのは、他でもない、母の言葉が予言になり、私自身が歳を重ねるごとに、恩田陸の本から離れていったという事実による。

文字通り、それは12歳の春から高校に進学する15歳までの蜜月だった。

恩田陸の本。

驚くほどに面白く、一度手に取ると時間を忘れてしまうほどに貪った。

なのに作品年表を見ると、2004年以後出版された本に1つも目を通していない。

『蜜蜂と遠雷』という名前がメディアに頻繁に流れたときだ。久々に恩田陸という名前が耳底を震わせて、私は思わず破顔した。

それは誘惑だった。

「私は、もう一度、恩田陸の本を同じように楽しめるのかしら」

良くも悪くも、時は流れて、強烈な感情の余韻だけが胸に残る。

恩田陸の本を再び手に取ることは、私にとって1つの実験だった。

過去に戻ることができなければ、再びそれを手に入れることは不可能なのだろうか。

『蜜蜂と遠雷』を私はすぐに忘れてしまうだろう

実験というのは、結果が出る前からすでに仮定が存在しているという。

私は、期待していた。

しかし、結論から言えば『蜜蜂と遠雷』は、私の心を強く掻き立てるような作品ではなかった。

これだけの長さの小説を、4時間頁をめくる手を休めることなく読み続けてしまったのは、偏に恩田陸という作家の力量によるものなのだと思う。

しかし、この本の内容を私はすぐに忘れてしまうだろう。

1つに、一色まこと『ピアノの森』、二ノ宮和子『のだめカンタービレ』など言わずと知れたピアノコンクールを題材にした漫画の存在は大きい。

ピアノの森 コミック 全26巻完結セット (モーニングKC)

ピアノの森 コミック 全26巻完結セット (モーニングKC)

 

漫画と小説を比較することにそもそも意味があるとも思えない。

だが、それでも音楽、特にステージ上で演奏されるコンクールを描くのであれば、圧倒的に理があるのは、文字ではなく絵による表象だ。

演奏者のルックス、立ち振る舞い、ピアノに向かう姿勢から目線まで。

音楽体験は、必ずしも耳によるだけのものではなく、視覚によるところが大きい。

だからこそ文字による音楽の表象は、非常に難しく、文字を重ねるごとに、哀しいくらいに説得力を失っていくように感じられる。

素晴らしい演奏を「素晴らしい」と描写してしまうことの安直さ。

だからこそ、作者が演奏者の心理を風景描写として描いて映像化することに力点をおいているのがわかる。

そこで必要とされるのは、作者の表現力がモノをいう詩の世界だ。

音楽が想起させる美しい調べ。

この世のものとは思えない、天上の風景を見せる、文学の世界。

しかし残念ながら、恩田陸は詩人ではない。

彼女が描こうとする音楽に匹敵するほどの、言葉の美しさを味わう喜びを、彼女の書く文章に期待することはできない。

恩田陸の強みは、決して流麗な文章の美しさにあるのではない。

時に男性的とも評されるような、歯切れの良さ、個性的なキャラクター、意表をつく、読者を惹きつけるプロットづくりの上手さ。

一度読めば、読者を離さない大胆不敵で、荒唐無稽ともいえる不条理なプロット。

沢山の本や映画に出会った彼女の、想像力から喚起される、非現実的な世界に飛び込むことの圧倒的なスリル。

そう、十代の頃から、ずっと思っていた。

恩田陸の本は、最高のエンターテイメントだ、と。

エンターテイナーであり続けること

『蜜蜂と遠雷』に登場する或る女性ピアニストを、音楽の神様に愛された高みに立つ、二人の天才が、こう評する場面がある。

「彼女は、アトラクションなんだ。そうか、ずっと彼女の演奏にぴったりする言葉を探してたんだけど、アトラクションか。それなら納得できる」

「お客さんは大喜びだし、ポピュラリティがあるよ」

「だけど、彼女に言ったらカンカンになるだろうな。音楽家にとっては、とっても屈辱的な言葉だよ。でも当たってる」

この二人の天才たちの言葉をなぞるように、評されたピアニストは、審査員から評価されず、舞台の上を立ち続けることはできなかった。

物語の中で、揶揄されるように描かれるこのピアニストは、その後どうするのだろう。

天才たちに近づこうと、自分に無いものを求めて、苦行するのか。それとも自分にある強みを伸ばすように、大衆を味方につけるのか。

ふと考えれば、私が中学時代に最後に読んだ恩田陸の本が『夜のピクニック』であったことは、偶然ではない。

本屋大賞と吉川英治文学新人賞を華々しくW受賞し、恩田陸という名前を一気に世間に知らしめたこの本を、当時の私は好まなかった。

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)

 

禍々しく、不条理で、謎を最大限にまで煽った挙句、さっぱりよくわからない結末を迎えて縮小していく恩田陸の本。

それは一見、欠点のようでもある。

だが、彼女の作品に心惹かれていた読者としては、『夜のピクニック』はそれまでの作品に比べ、毒気の抜けた面白みのない内容だと感じられてならなかった。

この延長に『蜜蜂と遠雷』があるのだというのは、極論なのかもしれない。

彼女は間違いなく、自分がエンターテイナーだと自覚している作家だと思う。

しかし一方で、それを心の底からは認めていないのかもしれない。

恩田陸の本は最高のエンターテイメントだった、と。

子ども時代を振り返り、そう評することは、もしかして彼女にとって、侮辱に値する言葉なのだろうか。

最初の一音で、音が違うと、観客を惹きつけるピアニストに例えるならば、それは、たった一行で、雷を瞬かせるように、読者を惹きつける小説家だろう。

彼女はそのような小説家に憧れているのだろうか。

でも違う。

恩田陸は、おそらくそういう小説家ではない。

昔も今も、私はそう思っている。

けれども、彼女が描いた鮮烈なアトラクションの数々を、思い出す度に、私は幸福な読書体験に立ち返ることができるのだ。

嗚呼、だから、もっともっと劇的であってほしい、なんていうのは我儘だろうか。

多作な恩田氏はこれからも本を書き続けるだろう。

10年後、20年後。

「私は今も、恩田陸の本を楽しめるのかしら」

そんな思い付きから、圧倒的なアトラクションを、彼女の本の中に再度見つける。

私は舌なめずりをして、一体これは、どういう話なんだ、と呆れにも似た言葉を吐きながら、こう漏らす。

「やっぱり恩田陸の本って、最高のジュブナイル小説なのよ」

そんな言葉を、自分の子どもと本を共有しながら呟く未来があれば、なんて幸福だろうかと想像しながら、夜のまにまに、たまには真面目な読書の感想を。

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

蜜蜂と遠雷 (幻冬舎単行本)

 

私は図書館で借りましたが、非常に分厚い本です。

kindleは半額以下で購入できるようなので、電子版で読むのをお勧めしておきます。

本に関する他の記事

www.nekopajamas.net

www.nekopajamas.net

www.nekopajamas.net