バーナード・ショーの『ピグマリオン』は嫌いじゃない

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から、光文社古典文庫バーナード・ショー『ピグマリオン』を読んだ。

『ピグマリオン』というタイトルよりも、オードリー・ヘップバーン主演のアカデミー賞受賞映画『マイ・フェア・レディ』(1964)の原作、と説明した方がピンとくるという方は多いかもしれない。

下町生まれの粗野で下品な言葉遣いをする花売り娘イライザを演じるヘップバーン。

ひょんなことから言語学を研究しているヒギンズ教授と出逢い、一流のレディに仕立て上げられていくというロマンス映画。

さきに述べておくと、私の大嫌いな映画の1つである。

典型的なシンデレラストーリーという煌びやかな盾の裏。

男性の好み通りに着るもの、住む場所、言葉全てを「矯正」された若い女性に用意されたハッピーエンディング。

これほど男性本位なプロットは正直、反吐が出そうなもので、1960年代といえば、公民権運動と並び、欧米で(第二波)フェミニズムが台頭した時代。

この映画の結末はフェミニズムの流れをせき止めるようなある種恣意的な制作側の意図があるようにも思えてならない。

その原作が今回読んだ『ピグマリオン』だ。

しかし、これが意外や意外。

映画とは全く結末が異なっていたのだ。

目次

映画とは全く異なる原作『ピグマリオン』の結末

さて『ピグマリオン』というのは、そもそも

  • ギリシャ神話に出てくる彫刻家の名前

であることをご存じの方は多いだろう。

彫刻家ピグマリオンは、生身の女の嫌なところばかり見てきたため、根っからの女嫌い。

そんなピグマリオンは或る日、大理石で世にも美しい乙女の像ガラテアを自ら彫った。

自ら生み出した理想通りの美しさ。

すっかり参ってしまった彼は深く、その彫刻を愛するようになる。

彼の姿を見て、愛の女神アフロディーテは、彫刻ガラテアを本当に人間へと変える。

そして二人は、めでたく結ばれた。

めでたしめでたし。

この神話を題材にしたバーナード・ショー『ピグマリオン』は、映画『マイ・フェア・レディ』と同様、言語学者によってレディに仕立て上げられた花屋の娘が、最終的に彼の妻として迎えられるという話。

…だとばかり思っていた。

しかしバーナード・ショーは、そのような結末をあえて放棄し、このように記してさえいる。

イライザ・ドゥーリトルの身に起こったことは、その到底あり得ないほどの変貌ぶりからロマンスと呼ばれているが、実際にはよくある話である。

[…]

にもかかわらず、様々な方面の人々が一様に、ただイライザがロマンスのヒロインになったからというだけの理由で物語の主人公と結婚したに違いないと決めつけてきた。

これには我慢ならない。

さらにその理由について

浅はかな思い込みで演じられたのでは彼女のせっかくのドラマが台無しにされてしまうからというだけでなく、広く人間性というもの、特に女性の帆脳というものがわかっている者にとっては、物語が真に向かう方向は歴然としているからである。

イライザはヒギンズに「頼まれたって、あんたとだけは結婚しないからね」と告げるが、思わせぶりでそう言っているわけではない。

よく考えたうえでの決意を表明しているのだ。

と述べている。

『マイ・フェア・レディ』の結末があまりに腑に落ちず、女性の意思を尊重していないと感じた身としては『ピグマリオン』の内容は心嬉しいものだった。

ヒギンズ教授とイライザは結ばれない。

なぜなら、イライザには選択肢があるからだ。

女嫌いで、20も年上の、傍若無人な言語学者と一緒にならなければいけない理由などない。

彼女は本能に身を任せて、人生を選択することができる。

バーナード・ショーはこの作品で、明らかに女性の自立をテーマにしているのである。

レディと花売りの違いは何か?

印象的だったのは、下町訛りを矯正し、礼儀作法を身に着けた後のイライザが、ヒギンズに対してこのように啖呵を切るシーンだ。

誰にでも習って身につけられること(着こなしとか、正しい喋り方とか)は別にして、本当の意味でレディと花売りの違いは、どう振舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです。

ヒギンズ先生にとっては私はいつまでも花売り娘のままです。

先生はいつも私のことを花売り娘として扱われ、これからもずっとそうでしょう。

でも、あなたの前では私はレディでいられるのです。

いつだってそのように扱ってくださり、これからもそうでしょうから。

ギリシャ神話のピグマリオンは、彫刻でしかないガラテアを、それこそ「人間」の女のように毎日愛でた。

彫刻は彼にとっての理想の恋人であった。

だからこそ、二人は結ばれた。

しかし賭けのために、まるで野良犬を拾うようにイライザを扱い、いつまでも対等の存在と認めず、女性蔑視の言葉を履き続けるヒギンズにとって、彼女は永遠に理想の恋人、もしくは尊重すべき対象にはなり得ない。

他者に対する投影は、視線や態度を通して、相手に伝わり、影響を与える。

同じ生徒なのに、教師の期待値によって生徒の成績が上下するという実験結果から「ピグマリオン効果」という名前が生まれたほどなのだから。

理想的な紳士、理想的なレディ。

もし自分のパートナーを理想的な素晴らしい異性と思えないのであれば、そこには自分の無意識の投影があるのかもしれない。

と語るのは、はたまたえらそうな物言いになってしまうのだろうか。

「女子力」という言葉の違和感

突然だが、最近見かけた話題ツイートにこのようなものがあった。

米国人男性友人の家での飲み会で、お開きになり、ついお皿の後片づけを勝手に始めてしまった。彼が飛んできて「何するの?」私「え?片づけ」彼「まさか皿洗いが趣味の人?ちがうよね?やるならまず全員でジャンケンだよ」と笑って止められた。なんかハッとした。

— montserrat (@montserrat5) 2018年2月10日

飲み会で率先して、食事を配り、酒を注ぎ、後片付けをする女性を

「女子力高いね」

といった具合に褒める。

このような風潮が生まれたのはここ4~5年のことで、使用する側にとって、特に深い意味もないのかもしれない。

しかし何とも可笑しな言葉だ、と首を捻り続けてきた人間は私だけではないだろう。

さて、女嫌いのヒギンズ教授が、唯一イライザを認める台詞にこのようなものがある。

僕は、女が男のスリッパを持ってくるのは不快な光景だと思っている。

僕が君のスリッパを持ってきてやったことがあるかい?

君が僕の顔にスリッパを投げつけたことで大いに見直してぐらいだ。

奴隷のように仕えながら、気に掛けて下さいって言ってもしょうがない。

誰も奴隷のことなんか気にしないからね。

他者に対する投影は、現実化する。

また同様に自分の他者に対する態度や行動が、相手の自分に対する投影を左右する。

「女子力」という言葉の異様さは、指摘するまでもない。

それが男女相互の思いやりや気配りではなく、女から一方的に与えられるものだと限定しているのだから、虫唾が走るのは当たり前である。

男も女も、与えることができ、与えられることもできる。

選択権があり、自立の余地がある。

バーナード・ショー『ピグマリオン』。

それは私の大嫌いな映画『マイ・フェア・レディ』の原作。

でも、私はこの本が嫌いじゃない、そんなことを思いながら夜のまにまに、たまには真面目な読書感想を書き残したりして。

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